CiRAニュースレターvol.30
2017年7月20日発行
八代 嘉美 准教授

ゲノム編集をヒト胚に 応用する問題点

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以前、このエッセイでゲノム編集の話題に触れて以降、メディアなどでも大きく取り上げられ、社会の中でも大きな注目の的となりました。学術政策的な観点からも、また生命倫理の議論でも、「流行りモノ」になったといえるでしょう。その議論の主戦場は、「胚」に対する適用の是非に絞られていました。胚にゲノム編集を行うことの問題はいくつか指摘されていますが、生殖医療のために用いる、つまり出産を前提とした胚に対してのゲノム編集は少なくとも現時点では行うべきではない、という点で一致していました。

ただ、余剰胚や異常胚を用いる基礎研究での審査体制については、大きな議論となりました。最も象徴的だったのは、2017 年4 月19 日に内閣官房長官が記者会見で「国として責任ある関与をすべきと考えている」と述べたことです。それまで、基礎研究の審査については、ゲノム編集に関連する学会が合同で研究の妥当性などを審査する委員会を設置し、国はあくまで協力するという方向性で一旦決定していました。それが、この問題を担当していた内閣府が「研究者が勝手にやることだ」として、いわば「責任逃れ」ともとれる態度を見せたことから、関連学会が態度を硬化させ、決定を翻して審査体制構築の中止を決めたのです。

果たして、これはよいことだったのでしょうか。私は、好ましくない例を作ってしまったのではないかと思います。もちろん、責任を放棄するかのような内閣府の姿勢は批判されて然るべきでしょう。しかし、最先端の研究では、その内容を熟知しているのは研究者であり、専門家集団のはずです。英国の社会学者であるミラーソンは、専門家は自治能力をもつ集団とも定義しています。政府が最先端技術に関する方針を直接左右する、ということになっては、研究者はいったいなんのための専門家集団なのか、ということにもなりますし、時の政治権力に科学への介入を許す口実にもなりかねません。

もちろん、研究者だけで物事を決めていいわけではありません。しかし、日本の再生医療や発生学研究の研究者は、かつてヒトES 細胞研究の是非を巡って、議論を多面的に深めることができないまま、そのルールが組み上げられていくさまに立ち会いました。「国が責任を持つ」というのは、たしかに安心感はあるかもしれません。しかし、それは、国が「厄介事に巻き込まれない範囲」に限ったことです。研究者がなにをすべきかは、研究者自身が考えていくべき課題でもあり、また、研究を支える社会が研究者に何を求めるか、ということにもかかっているのです。

(文・上廣倫理研究部門 八代嘉美)