CiRAニュースレターvol.32
2018年1月26日発行
鈴木 美香 研究員

その「対話」、何のため?

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最近、「対話」という言葉が気になっている。どのような意味で使っているのかと気になり始めたら、とことん気になるようになってきた。例えば、今朝のニュースでは、ある事件の解決を巡り、『丁寧な説明や、十分な対話をしながら解決を目指す』と使っていた。内閣府が推進する政策「国民との科学・技術対話」では、「対話」を『研究者が自身の研究活動を社会に対して分かりやすく説明する双方向コミュニケーション活動』と位置づけ、なぜ取組むのかといえば、『科学技術をより一層発展させるため』には、『国民の理解と支持を得ることが不可欠』だからとしている。さらに、当部門のホームページでは、『ヒトiPS 細胞の新しい可能性を求めて、広く社会と対話を重ねたい。』と記している。

いずれの例でも、分かりやすく説明すれば相手は理解し、そして支持してくれる(その結果、問題は解決される)という前提のもと、「対話」を「相手に理解し支持してもらうために、説明したり、質問に答えたりすること」としているように読める。しかし、研究者が説明したり、質問に答えたりしさえすれば、市民の理解は得られ、支持されるだろうか。親子でも、夫婦でも、いくら対話を重ねても理解し合えないことがある。であるならば、対話の目的は、相手の理解や支持を得るためとはいえなさそうだ。

私は、「対話」というのは、「相手の意見と異なる点を確認し、その先に、新しい選択肢を導き出すために、ひとりの生活者として語り、聴く行為」だと考える。

例えば、iPS 細胞を使って、何をどこまでしてよいかについて「対話」をするならば、研究者は、科学的、合理的、客観的な解説をするのはもちろん、ひとりの生活者として、どう考えるかという自分の価値観をさらけ出す必要があるのではないか。そして、相手の価値観も聞かせてもらい、対立する部分を明確にした上で、新たな考えを導き出し、お互いが了解できるところを丁寧に模索するという作業が必要になってくると思う。科学・技術を駆使するのは他でもない人であり、その恩恵を受けるのも人である。人の暮らしや営みの中で、技術をどう使いこなすかに答えを出すには、科学だけでは答えが出せない部分について、ひとりの生活者としてこの問いに向き合うことを忘れてはいけないのではないか。

自戒の念を込めて書こう。私たちはこれまでに、このような「対話」をしてきただろうか。いや、対話の前に、まずは自分自身に対して問い、答えようとしてきただろうか。ヒトiPS 細胞が発表されて10 年、そして部門員として5 年を迎えた私は今、これまで以上に、このような「対話」の必要性を痛感している。できるところから、始めなければと思う。

(文・上廣倫理研究部門 鈴木美香)