ヒト胚研究のルールを変更することの意味に関する論文がEMBO reports誌に掲載されました

京都大学高等研究院 ヒト生物学高等研究拠点(WPI-ASHBi) 澤井努 特定助教(京都大学iPS細胞研究所(CiRA)上廣倫理研究部門・受入教員)、ASHBi 奥井剛 特定研究員(CiRA上廣倫理研究部門・受入研究員)、CiRA上廣倫理研究部門 赤塚京子 特定研究員、CiRA増殖分化機構研究部門 皆川朋皓 研究員は、2021年5月末に国際幹細胞学会(以下、ISSCR)がヒト胚研究に関する胚の体外培養の日数制限(「14日ルール」)を禁止項目から除外したことを受け、その判断に至った経緯とともに、既に生じている批判や懸念を考察しました。そのうえで、今後、国際社会でヒト胚研究をどのように規制していくのがよいのか、また日本がこの研究をどのように規制していくことになりそうかについても論じました。ISSCRによる今回の判断はヒト胚研究の在り方を論じる際のきっかけにすぎず、本稿で提示した点も踏まえ、将来的に規制緩和をすべきなのかどうかについて社会に開かれた議論を行うことが期待されます。

本研究成果は、2021年8月16日に米国科学誌「EMBO reports」でオンライン公開されました。

                本研究の概要図(©LAIMAN-ARIGA)

 

  1. 背景
  2. 2021年5月末、幹細胞研究の学術団体として影響力のある国際幹細胞学会(以下、ISSCR)が5年ぶりにガイドラインを改訂しました。この改訂で、ヒト胚の研究規制における国際ルールである「14日ルール」を禁止項目から除外したことが議論を呼んでいます。14日ルールとは、胚を受精後14日以降、または原始線条(胚の発生初期において臓器分化を開始する直前に形成される溝のような構造)の形成以降、培養してはならないとするルールで、現在、日本を含め、ヒト胚研究を容認している多くの国が採用しています。

    1980年代、イギリスで、ヒト胚の研究利用の是非をめぐって国を挙げた議論が起こり、科学の進展を支持する賛成派と、胚の保護を支持する反対派の意見が真っ向から対立しました。このとき、政治的妥協として策定されたのが14日ルールです。受精後14日までの胚は双子になる可能性があり、一人の人間としてのアイデンティティを持っていない、つまり胚の研究利用が特定の個人に危害を加えることにはならないと考えられたこと、またこの時期までの胚は苦痛を感じる感覚器官を持たないことを根拠に、受精後14日までのヒト胚研究が容認されました。

    今回、ISSCRが14日ルールを禁止項目から外した理由としては、1980年代には技術的に不可能だった胚の長期培養が可能になったことで、受精後14日以降に起こるヒトの生命現象をより深く理解したり、発生初期に生じる病気の原因を解明したりすることが期待されていること、また近年、(精子と卵子を受精させなくても)ヒト多能性幹細胞から胚のようなものが作製できるようになり、そもそも受精後14日という日数が意味を持たなくなっていることが挙げられています。

    ISSCRも、14日ルールが科学に対する社会の信頼につながっていたことを認識したうえで、このルールを緩和するのであれば、各国が社会でこの問題を議論する必要があると述べています。その意味では、ISSCRによる今回の判断はヒト胚研究の在り方を論じる際のきっかけにすぎません。

    本稿の執筆メンバーは京都大学ASHBiならびにCiRAの同僚で、2018年以降、初期発生研究の倫理に関して、文理融合研究を推進してきました。


  3. 研究手法・成果
  4. 本稿では、まずISSCRが14日ルールを禁止項目から外した経緯を把握するとともに、これに対して生じている反対意見や懸念をレビューしました。上記の通り、イギリスでは14日ルールが社会的な議論の末に法制化されたという歴史的経緯を認識したうえで、20世紀最大の政治思想家の一人として知られる、ハンナ・アーレント(1906-1975)の「約束」概念注1)を導入し、14日ルールの意義、またそのルールを変更することの意味を論じました。14日ルールは単なる政治的妥協の産物なので、科学的・医学的な目的があればルール変更すればよいと安易に考える人がいるかもしれません。しかし、このルールは規制である以上に、胚研究をめぐって対立する価値観を仲裁する重要な役割を果たしており、これこそが14日ルール設定の意義であったと言えます。また最近、国際保健機関(WHO)がゲノム編集技術を国際的に監督しようとする動きがあることを受け、本稿では、国際的に胚研究を監督するためにもWHOによる登録制の導入を提案しました。さらに、この問題は日本の科学研究の規制においても重要であるとの認識を基に、今後日本がどのような判断を下す可能性があるのかを検討し、日本のヒト胚研究の規制の経緯を踏まえれば、14日ルールが緩和される可能性は低いと論じました。


  5. 波及効果、今後の予定
  6. ISSCRの今回の判断が多くの国にとって14日ルールの緩和を意味するわけではないという、ある意味で当たり前の点を指摘することができたことは意味があると思っています。これまでの議論の経緯を見る限りにおいても、胚研究のルールは科学者だけで決めてよいわけでも、生命倫理学者だけで決めてよいわけでもありません。私たちの指摘はあくまで議論の活性化に向けた提案に過ぎません。今後、多様な利害関係者がこの問題について論じ、現状維持、規制緩和、規制の厳格化などの最終的な判断を行っていく必要があると考えています。


    <用語解説>
    注1)
    約束:アーレントの政治思想における重要概念の一つで、不確かな未来に向けて道徳の指針の役割を果たす。人間の行為は、あらかじめ知ることのできない、取り返しのつかない結末を生じさせることがあるが、約束は、こうした事柄をめぐる見解の対立を調停し、行為に限界を設けることでそれを予測可能なものとする。

    <研究者のコメント>
    ヒト胚を研究利用してよいかどうかという問題は、日本国内でも2000年代の初めに盛んに議論されました。私たちはその当時、リアルタイムで議論を追っていたわけではありませんが、現在運用されている胚研究のルールはそこでの議論が基になっていることを知っています。したがって、そのルールを変更するには、社会に開かれた議論が必要になるだろうと私たちは考えています。そして、私たちも来たるべき議論に向けて微力ながら貢献したいと思っています。

    <原論文情報>
    論文名:Promises and Rules: The implications of Rethinking the 14-Day Rule for Research on Human Embryos(約束とルール―ヒト胚研究の14日ルールを再考することの含意)
    著 者:Tsutomu Sawai, Go Okui, Kyoko Akatsuka, Tomohiro Minakawa
    掲載誌:EMBO reports
    DOI:10.15252/embr.202153726

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