CiRAニュースレターvol.57
2024年10月11日発行
奥井 剛 研究員

人間の生の始まりについて

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人間の生は、一体いつから始まるのだろうか。古代から続くこの問いをめぐる混乱は、中絶や胚研究の規制をめぐる論争へと形を変えて、現代に受け継がれている。歴史をひもとけば、受精の瞬間を人間の生命の始まりとする見方は、近代発生生物学の発展とともに19世紀後半に神学者たちに取り入れられたものである。それまでは胎動初感(quickening)に区切りが置かれていた。

Quickeningは教会法で用いられていたラテン語のanimatusを英語に翻訳したものとされる。この言葉は「生を与える」ことを意味する動詞animareの過去分詞形であり、また、その名詞形のanimaは「魂」を意味する。西洋において人間の生の始まりをめぐる問いは、「入魂」は一体いつ起こるのかという点をめぐって展開してきた。胎動初感もその一つの解釈に過ぎない。

この問いの起源は古く、元々は古代ギリシアの哲学者であるアリストテレス(前384年~前322年)に由来し、中世の神学者アクィナス(1225年頃~1274年)を経てキリスト教神学へと導入された。アリストテレスは『動物の発生について』で、魂を「栄養摂取のための魂」、「感覚の魂」、「知性の魂」の三つに区別した上で、胎児から人間への生成を段階的に説明しようと試みる。しかし彼自身が認めるように、その最大の難問は、人間と動物を画する「知性の魂」にわれわれがあずかるのは「いつ、どのようにして、どこから」なのかという点にある。アリストテレスはまるで苦しまぎれに、それは生成の最後の段階で「外からやってくる」と述べているが、アクィナスはこれを不服として「神によって創造される」とした。

とはいえ、われわれはそもそも、この問いを哲学者や神学者、科学者、あるいは政治家や裁判官たちだけに委ねてよいのだろうか。西洋哲学はその伝統において、人間をもっぱら「死すべき者たち」(mortals)と捉え、永遠なるものへといたる死のあり方を理想としてきた。生前、哲学者と呼ばれることを拒み続けたハンナ・アーレント(1906年~1975年)は、あたかも向いている方向が逆だと言わんばかりに、人間を「生まれし者たち」(natals)と呼んだ。彼女によれば、人間の出生という新たな始まりの奇跡には、世界への希望が込められている。彼女はその最大の表現を、ヘンデルの聖譚曲「メサイア」を聴いた体験から「われわれのもとにひとりの子が生まれた」という「良い知らせ(glad tidings)」に見出した。

このコラムを執筆していて、ふとわたしの娘が生まれたときのことを思い出した。その日、わたしは憔悴しきった元妻と安心したように眠る娘に後ろ髪を引かれながら、病院を後にした。すでに夜明けが近かったが、溢れる高揚感を抑えきれず、思わずポケットからスマホを取り出し、ケニー・バレルというジャズ・ギタリストの弾く「A Child Is Born」という曲を聴きながら星空を仰いだ。この「良い知らせ」をもたらしてくれた彼女には、いつまでも感謝の念に耐えない。

 

(文· 奥井 剛* 京都大学高等研究院 ヒト生物学高等研究拠点(ASHBi)特定研究員)

*CiRA上廣倫理研究部門で受け入れている研究員