CiRAニュースレターvol.54
2023年10月12日発行
赤塚 京子 研究員

ヒト胚モデルの研究が問いかけるもの

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近年、ヒトやヒト以外の動物のES細胞やiPS細胞から、受精卵(胚)を模倣したモデル(胚モデル)を体外で誘導する研究が進展しています。胚モデルは、胚の発生を部分的に再現する非統合型モデルと、胚全体の発生を再現する統合型モデルとに大別され、これまで体外で観察することが困難であった発生初期に起きる様々な現象に関する知見を得る手段として注目されています。こうした知見が得られれば、不妊や初期流産、遺伝性疾患の原因解明や治療法に繋がる可能性があります。さらに、ヒトに関しては、日本の研究指針で受精後14 日 を超えた胚の体外培養が禁止されているため(「 14 日ルール」と呼ばれるもの)、胚モデルを代替させることで倫理的課題を回避しながら研究ができることにも期待が寄せられています。

一方で、こうした科学的進展の先には、新たな倫理的課題が待っています。たとえば、いくらモデルとはいえ、本物のヒト胚に類似した形態や機能を備え発生が進む以上、胚モデル研究を規制する必要が出てくるでしょう。実際に、国際幹細胞学会(ISSCR)のガイドラインでも、統合型の胚モデルに関しては、研究目的の達成に必要な最短期間での培養にとどめることや、ヒトや動物の胎内に移植しないこと、適切な監視のもと研究を実施することがルールとして盛り込まれています。

今後は、胚モデルが本物の胚とどの程度近い機能を有するかを検証する目的で長期培養することや、その際に比較対象として本物のヒト胚を14日以上培養することは倫理的に認められるのか、といった課題の検討も必要となるでしょう。

ただし、こうした倫理的課題は、多くの方にとって馴染みのあるものとは言えないかもしれません。中には、実験室で科学者が行う研究なのだから専門家でルールを決めてくれれば良いのに、と思われる方もいるでしょう。しかし、ここで問われているのは、特定の科学研究の是非であると同時に、私たちがヒト胚をどのような存在であると認識しているのか、ヒト胚がもつ人になりうる潜在性をどのように評価するのかといった生命観に直結するような問いでもあります。

科学研究の方向性やその成果の応用について、一般の方を交えて考えていくことが求められる理由はここにあります。科学者を除き、胚や胚モデルを培養する研究のルール作りに関心のある方は少ないかもしれません。しかしこうした研究が進展したあかつきには、私たちの生命観を大きく変えうるような技術が登場し、その生活や社会に影響する可能性があります。だからこそ、科学がいかに進展しようとも大事にしたい価値観、社会の将来像を一緒に考えていくことが重要なのです。

(文· 赤塚 京子 上廣倫理研究部門特定研究員)