ヒーラ細胞が問いかけたこと
ヒーラ(HeLa)細胞という名前を持つ細胞をご存知でしょうか。世界中の研究者に用いられ、様々な医学研究に寄与し続けてきた細胞です。
この細胞は、1951年に米国で、子宮頸癌により亡くなられたヘンリエッタ・ラックスさんに由来します。癌研究のために無限に増える能力を持つ細胞株の作製を目指していた研究者によって、ヘンリエッタさんの癌病変から採取した細胞が他の細胞にはない高い増殖能力を持つことが見出され、その性質を持ち続けることを可能とする細胞株が作製されました。研究の発展に寄与することを目的として、この細胞株を希望する世界中の研究者に送られたことで、ポリオ研究をはじめ数多くの医学の発展に繋がりました。
ヒーラ細胞は、当時の慣習でヘンリエッタさんの名前(Henrietta Lacks)を用いて名付けられましたが、ご自身はその存在を知ることなく天に召され、ご家族も約20年間その存在を知ることはありませんでした。ヒーラ細胞にまつわる著書(※1)には、ヘンリエッタさんの長男の夫人が、友人の義兄(A氏)との昼食会に呼ばれた際に、研究者であるA氏が、夫人の「ラックス」という名字から、自身が長らく研究に用いてきた細胞の由来が「ヘンリエッタ・ラックス」というアフリカ系米国人女性であることを最近知ったと伝えたことで、ご家族が知るに至ったとあります。さらに、BBCがヒーラ細胞とヘンリエッタさんに関するドキュメンタリーを作成するなど、世間からの注目が高まる中で、ラックス一家も公に知られる存在になっていきました。つまり、ヒーラ細胞に由来する家族が見える状況で、その細胞を世界中で用いるようになったと言えます。
そのような中で、2013年にヒーラ細胞のゲノム情報を公開しようとする動きが出てきました。しかし、すでに広く世間に認識されるようになったラックス家にとって、ゲノム情報の公開はプライバシーの侵害となるという懸念もあり、公開は一旦中止になりました。当時、米国立衛生研究所の所長であったフランシス・コリンズ氏は、研究の発展と同時に個人を尊重するためには、何よりも本人の意思の確認が重要であると考え、ご家族とヒーラ細胞のデータの取り扱いについて話し合いを持ち、様々な質問に答えながら、ご家族の不安や疑問に対応されたそうです。(※2)(※3)
ヒーラ細胞の存在は、多くの研究成果に寄与するとともに、生命科学の発展の中で倫理的に配慮すべきことが抜け落ちていないかを考える必要性も教えてくれました。そして、そのような倫理的配慮を考える時に、細胞を提供された方や実験に協力してくださる方など、当事者の思いをどのように汲み取るべきかについても、示唆を与えてくれたと言えるでしょう。
(※1)Rebecca Skloot, The Immortal Life of Henrietta Lacks, Crown. (2010), 中里京子訳.
不死細胞ヒーラ:ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生. 講談社. (2011).
(※2)Ewen Callaway. Deal done over HeLa cell line. Nature 500, 132–133 (2013).
(※3)Ewen Callaway. NIH director explains HeLa agreement. Nature News Q&A (2013).
(文· 高嶋 佳代 上廣倫理研究部門特定研究員)