CiRAニュースレターvol.53
2023年6月29日発行
及川 正範 研究員

データと倫理研究

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昨年、岩波文庫からジョン・スノウ著『コレラの感染様式について』(山本太郎訳)が出版されました。この公衆衛生学の古典的著作が今の時期に翻訳出版されたのは、おそらく感染症に対する人々の関心を受けてのことと思われます。同書はのちに疫学の祖と呼ばれるようになったスノウが、19世紀英国で流行したコレラの原因に迫った調査記録です。当時はコレラ菌が発見される前であったため、患者の居住地域や生活環境、発症日前の行動、利用していた水の供給源などを一つ一つ丹念に調べ上げるといった先駆的かつ根気のいる疫学的手法により、特定の井戸水がコレラ流行の大きな要因となっていることを冷静な筆致で指摘しています。

その記述から想像する姿はさながら探偵のようです(※)。シャーロック・ホームズは推理にはデータが不可欠であることを比喩的に「粘土がなければ煉瓦は造れない」(『 The Adventure of the Copper Beeches / ぶな屋敷』)と表現していますが、粘土を採掘、粉砕、成形、乾燥、燃成して煉瓦を造るかのように膨大なデータを収集、整理、吟味、批判、構成することによって医学的仮説を打ち立てているのです。

倫理に関する私たちの研究でもこのような過程を経ることがあります。正しい倫理的判断は正確な事実認識の上に成り立つものと考えるからです。特に科学における倫理問題を扱う際には、倫理的に適切な行為とは何かという視点から、改めて問題とする科学的営為とそれに随伴する影響を整理分析することによって事象の正確な理解に努めます。ときには、科学者や利害関係者に対して聞き取り調査や質問紙調査を行うこともあります。

しかし、煉瓦を造ることや医学研究と本質的に異なるのは、事実の集積から直接的に倫理規範が導かれるわけではないということです。むしろ、事実と規範(価値)との間には論理的な隔たりがあるのではないかと考えます。つまり、「~すべき」(ought)という倫理や道徳に関する言説は、「~である」(is)という事実からは導くことができないのではないか、ということです。しかし他方で、そもそも事実と価値を厳密に区別できるのだろうか、という疑問もあります。実際、このような問題はIs-Ought問題と呼ばれ、倫理学で長く議論されているものです。

私がいま関心があるのは、上記の問題を考慮に入れつつ、先端科学における倫理規範の構築に経験的データ、とりわけ一般の方々のような非専門家の知見がどのような役割を担い、いかにして規範の構築に役立てられるかということです。これは市民科学的な知の可能性を探るうえでも重要な視座を提供するものと考えています。

 

(※)Medical Detective(『医学探偵』)と題するスノウの伝記も出版されており、その調査過程から探偵を想起する人は少なくないのかもしれません。

(文· 及川 正範* 京都大学高等研究院 ヒト生物学高等研究拠点(ASHBi)特定研究員)

*CiRA上廣倫理研究部門で受け入れている研究員